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   <title>世界史全集</title>
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   <title>ポンペイウス</title>
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      ポンペイウス（グナエウス・ポンペイウス・マグヌス/Gnaeus Pompeius Magnus）は、共和制ローマ最末期の将軍・政治家である。紀元前106年にグナエウス・ポンペイウス・ストラボを父に生まれた。若年から軍人として頭角を現し、スッラ軍の司令官の1人として活躍する。その後もわずか3ヶ月で地中海の海賊を一掃するなど、手腕を発揮した。紀元前61年に3度目の凱旋式を挙行したポンペイウスは、軍団兵などからの圧倒的な支持を受けるが、元老院は警戒するようになった。そしてカエサルの娘ユリアと政略結婚。しかし、ポンペイウスには離婚暦があり、前妻との離婚の原因はカサエルとの浮気が原因だったと言う。紀元前49年に元老院に祭り上げられてカエサルとの内戦に入る。カエサルは、国禁を破り、ポンペイウスの地盤であるスペインを平定することに成功したが、暗殺される。その後、ファルサロスの戦いで敗れたポンペイウスも王の配下に暗殺された。
      
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   <title>光武帝</title>
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      光武帝は、は後漢王朝の創始者で初代皇帝である。平凡な宗族の一人であったが、王莽(おうもう)を滅ぼし、25年帝位について漢朝を復興させた。洛陽を最初に都城と定めたのも光武帝で、長安陥落後も洛陽をそのまま都城とした。また、奴隷を解放して自由民を増加させることで農村の生産性を向上させようとした。そのことで飢饉や、食料輸送の問題を緩和した。その政治方針は完全に庶民の立場に立ったもので、刑を罰する前に兵士との信頼関係を結ぶなど、家臣の扱いも適切でまさしく将の将たる人物であり、信頼され慕われていたことで戦にも勝つことが出来たのであろう。また、家臣や民間人にまで文句を言われても笑って許すほど寛大な心の持ち主であった。酒は好まないが宴の場を好み、たびたび家臣などを集めては大騒ぎしたと言う。しかし戦場では、自ら剣を奮い最先頭に立って戦う勇士であった。史記や三国志に相当する文献がないことから、日本ではあまり知られていない。
      
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   <title>ミラノ勅令</title>
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      ミラノ勅令は、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスが連名で発布した勅令である。ミラノで会談し、発布することを決めたことでこの名前になった。この勅令は、キリスト教を始めとする全ての宗教の完全なる信仰の自由を保障するものであった。それまで、ローマ帝国の皇帝であったディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害したが、東方正帝ガレリウスが寛容令を出したのに影響され、コンスタンティヌス1世は帝国統治にキリスト教を利用する目的もあり、他の宗教と共にこれを公認すべく、ミラノ勅令を発令したのである。その後、キリスト教の宗教会議で異端判断の最高機関でもあったニカイア公会議を開催する。この会議はキリスト論や三位一体論の解釈の違いにより、異端とみなされて排斥される者も現れたのである。その判断はそれぞれ、その地方の教会で会議が行われて決められていたが、その判断も難しいと考えられるようになり、統一の審議の場を作ったのである。この会議には司教の他に司祭や信徒など数百名の参加者によって開かれた。
      
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   <title>ジョゼフ・フーシェ</title>
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      ジョゼフ・フーシェ（オトラント公ジョゼフ・フーシェ/Joseph Fouché, duc d&apos;Otranto）革命期フランスの政治家である。1759年に船乗りの家に生まれるが、虚弱体質だったので神学校へ進学する。そして、僧侶をしながら教会所属の学校の教師になる。しかし、教会を否定し国民公会の議員になるのであった。山岳派に所属して国王ルイ16世の処刑に賛成。これによりジロンド派追放から免れるが、国王殺しに票を投じた罪が後に尾を引くことになるのであった。その後、情報収集能力の高さを評価されて警視総監を務め、警察大臣にまで成り上がる。ナポレオンに協力したことで統領政府でも警察大臣となった。1800年のナポレオン暗殺未遂事件で疑われるもジャコバン派出身と云う事で罷免される。タレイランらとともに王政復古を策謀してナポレオンを裏切るのである。しかし、国王ルイ16世の処刑に賛成していた前科のせいで、ルイ16世の娘であるマリー・テレーズにより辞任に追い込まれ、フランス亡命を余儀なくされた。
      
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   <title>フランク王国</title>
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   <published>2007-08-30T10:02:43Z</published>
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      フランク王国は、５世紀末にゲルマン民族の一部族であったフランクにより、建国された王国である。ゲルマン系諸族が大量の移住を行い、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、建国の礎となった。フランス北部とベルギーに勢力を有したことで、西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。800年のクリスマスに、ローマ教皇よりカール大帝は西ローマ帝国皇帝の称号を得たのだ。また、フランク人の伝統に即し、分割相続するよう遺言を残す。843年にフランク王国の王の死後、王国を3分割して相続することを定めた「ヴェルダン条約」が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つ（東フランク王国、中部フランク、西フランク王国）に分割された。この３つの国が、ドイツ、イタリア、フランスの起源となるのであった。しかし、家系の消滅や王権の衰退により、911年に東フランク王国、950年頃に中フランク王国、987年に西フランク王国が途絶えてしまった。
      
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   <title>ソロモン王</title>
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      ソロモン王は古代イスラエルの第3代の王である。ソロモンの父ダビデと母バト・シェバは、不倫の関係であった。バト・シェバは、家臣ウリヤの妻だったのだ。しかし、家臣ウリヤを死に追いやり、2人は結ばれるのである。そして2番目の子供としてソロモンが誕生する。父の死後、王位継承を狙う者たちを倒して3代目の王となる。イスラエルを安定させるため、エジプトに朝貢し臣従する意思を示す。ファラオの娘と結婚し、ギブオンで盛大な捧げ物をしたのだ。すると、「何でも願うものを与えよう」と神がソロモンの夢枕に立ったと言う。そこでソロモンは欲や名誉ではなく知恵を求めたため、喜んだ神はソロモンに何でも与えると言う約束をしたらしい。これをきっかけにソロモンは知恵者のシンボルとなった。そして、イスラエル王国を繁栄させ、エルサレム神殿を築くも晩年、異教徒の女性を側室にしたことで神の怒りにふれ、イスラエルは衰退していったのである。
      
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   <title>アンコールワット</title>
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      アンコールワットは｢寺院の都｣の意味で、カンボジアにあるアンコール遺跡の一つである。クメール建築の頂点に立つものであるが、周辺には他にも多くの遺跡が林立し、アンコール遺跡群と呼ばれている。12世紀前半に、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって建設されたが、三十年余の歳月を費やし、ヒンドゥー教寺院として建立された。1431年頃にアンコール王朝が衰退すると一時は忘れ去られるが、19世紀になってフランス人によって世界に紹介されたことにより、再び神秘の文化は脚光をあびるようになった。1632年には、日本人の森本右近太夫一房が参拝した記録も残されている。」「ここに仏四体を奉るものなり」、「御堂を志し数千里の海上を渡り」と壁面に墨書きを残して来たのである。大昔の出来事ゆえに、文献的に扱われているが、現代で言えば「落書き」となってしまうのである。独自の洗練された造形美を持つ、これらの遺跡群とその彫刻は1992年にユネスコの世界遺産に登録された。
      
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   <title>ヴァスコ・ダ・ガマ</title>
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      ヴァスコ・ダ・ガマ（Vasco da Gama）は、ヨーロッパ人として初めて喜望峰廻りの海路でインド到達に成功した、大航海時代の冒険家である。インド南西のカリカットに到達すると、双方との取引をなんとか取り付け、貿易許可状を与えられる。3ヶ月後、帰路につくが食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、船員の約半分が病死してしまった。ヴァスコ・ダ・ガマの兄もそのうちの1人であった。苦しい航海の末、9月になんとか帰国。その後、「インド洋提督」の称号を得て再びインドへ20隻の船団を率いて航海へ出る。ヴァスコ・ダ・ガマのインド洋航路の開拓は、ヨーロッパ諸国の勢力圏を大幅に拡大させることに繋がった。しかし、ヴァスコ・ダ・ガマは1524年に、3度目の航海に出るが、マラリアに感染しクリスマスイブに死去。ブラジル・リオデジャネイロを本拠地とするサッカークラブに「C.R.ヴァスコ・ダ・ガマ」があるが、名前の由来はこの冒険家ヴァスコ・ダ・ガマからきている。
      
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   <title>ヴェルサイユ条約</title>
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      ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の講和条約で、フランスのヴェルサイユで調印されたことでこの名前が付いた。条約は440条からなり200ページを越え、8万語に及んだと言う。本文が英語だったため1000人以上の法律家が集められたらしい。ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の講和条約であり、その結果ドイツとその同盟国は戦争を引き起こした責任として、莫大な賠償金を課せられ、ドイツは全植民地と本土の10%以上を失った。しかし、これがドイツの民族意識を高めてしまい、アドルフ・ヒトラーを中心とした国家社会主義である、ナチス政権を誕生させる元となってしまったと言う。それが原因で、その後は敗戦国に多額の賠償金を課すことはなくなったのである。そして、1935年にヒトラー政権がこの条約を破棄した。更に、ヴェルサイユ条約の過酷な条件が第二次世界大戦の引き金になったとも言う。それを受けて、第二次世界大戦敗戦後のドイツには過酷な請求はせず、復興に力を貸したという。
      
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   <title>エリーザベト</title>
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      エリーザベト（エリーザベト・アマーリエ・オイゲニー/Elisabeth Amalie Eugenie ）は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后である。 愛称は「シシィ」。エリーザベトはバイエルン王国の王族である父ルドヴィカ・フォン・バイエルンと同族のバイエルン公である母マクシミリアン・ヨーゼフから生まれた。幼少の頃は父と共に、狩りに行ったりと自由奔放に育った。エリーザベトはヨーロッパ宮廷一といわれた美貌の持ち主だったため、姉の見合い相手だった、従兄の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされてしまった。そのため16歳で結婚し、オーストリア皇后となったのである。幼い頃、自由に育てられたためか、宮廷での厳しい生活に耐えられず、理由をつけてはウィーンを離れていたと言う。そんなエリーザベトであったが、息子のルドルフ皇太子が自殺すると、ひどく悲しみ、生涯喪服を脱ぐ事はなかったと言う。
      
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   <title>氷河期</title>
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   <published>2008-02-19T00:12:05Z</published>
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      氷河期は、地球が異常な気候となり著しい寒冷化により氷河が発達した時代である。氷河期が起こる原因は解明されておらず、さまざまな見解が持たれている。大気中の二酸化炭素濃度の急激な減少や上昇が原因であるという説や南極大陸の移動が原因であるという説などさまざまである。氷河期は長年に渡って起きる現象で、最近では約1万年に起き、周期的に来るとも言われている。その見解からすると、現代の地球温暖化の影響で2010年以降に地球の平均気温が下がる氷河期のような時代が来ると考えている学者もいるようだ。長い氷河時代は人類の進化にも大きな影響を及ぼす。それまで陸だった部分が氷に覆われることで、動植物を滅ぼすこともある。過去に起きた氷河期で人類は2足歩行になったと言われており、氷河期が来ることで地球上に存在する動植物に変化が伴うと言えるのだろう。周期的に来るものだという考え方からすれば、現在の地球は氷期と氷期の間にあると言える。
      
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   <title>十字軍</title>
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   <published>2008-07-22T09:42:13Z</published>
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   <summary>十字軍とは、中世に西欧のキリスト教諸侯が、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還...</summary>
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      十字軍とは、中世に西欧のキリスト教諸侯が、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還することを目的に派遣した遠征軍のことを指す。この遠征は約200年間に渡って行われ、1095年に東ローマ帝国がセルジューク朝にアナトリア半島を占領されたことがきっかけで、皇帝アレクシオス1世コムネノスがローマ教皇に救援を依頼したことから始まった。合計8回の遠征が200年の間に行なわれ、第1回は1096年～1099年、第2回は1147年～1148年、第3回は1189年～1192年、第4回は1202年～1204年、第5回は1218年～1221年、第6回は1228年～1229年、第7回は1248年～1249年、第8回は1270年となっている。十字軍は、キリスト教圏の諸侯からなる軍隊で、キリストの十字架から名前が由来しているが、実際は巡礼者、軍人の妻、子供、娼婦など様々で、騎士はそれらの人たちを守る形となったようだ。そのため、戦闘にはあまり役立たずに足を引っ張ることも多々あったようだ。多くの犠牲者や死者を出したことに違いはなく、2000年に教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍について謝罪した。
      
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   <title>ドイツ騎士団</title>
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   <published>2008-10-02T05:06:31Z</published>
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      ドイツ騎士団とは、騎士修道会の一つでローマ・カトリック教会の公認の団体を指す。エルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会が前身で、第3回十字軍の戦士たちを保護するために設立された。1199年にローマ教皇インノケンティウス3世によってドイツ騎士団は騎士修道会として公認。ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルクに置き、西ヨーロッパに穀物を輸出するなどして貿易都市として発展を遂げた。しかし、支配下にあった都市の一つのエルビンクの住民はドイツ騎士団による支配を歓迎しておらず、タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団が敗戦したことをきっかけに、エルビンクはポーランド王国に加盟することになった。そして、15世紀に入るとポーランド・リトアニア連合の脅威に晒され、騎士団総長はポーランド王の臣下となったのである。その後、ドイツ騎士団は世俗的な領土を失い、ハプスブルク家の後援も断たれたが現在も存続している。
      
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   <title>マルコ・ポーロ</title>
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   <summary>マルコ・ポーロ（Marco Polo)は、ヴェネツィア共和国の商人であり旅行家で...</summary>
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      マルコ・ポーロ（Marco Polo)は、ヴェネツィア共和国の商人であり旅行家である。『東方見聞録』を口述したことが有名で、『東方見聞録』自体はイタリア人小説家であるルスティケロ・ダ・ピサが書いたものである。ルスティケロとは牢獄の中で知り合い、17年間元に仕えたことなどを口述した。中国語は話せなかったと言うが、3年間揚州で行政官として務めていた頃などに中国各地を巡り見聞きしたことをルスティケロに口述し、4冊の本となったのである。しかし、マルコの言っている事は信じてもらえないこともあり、ヨーロッパの人々から嘘つき扱いをされたこともあったようだ。それでも、事細かに記されたこの本により、当時のヨーロッパ人のアジアに対するイメージを変える貴重な資料として扱われることもあった。
      
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   <title>高麗</title>
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   <published>2009-02-28T12:59:34Z</published>
   <updated>2009-02-28T15:57:31Z</updated>
   
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      高麗（こうらい）は、918年～1392年に王建が建てた国で、王建はもともと後高句麗の将軍であった。実力もあり群臣たちからの信望も厚かったのだが、後高句麗を建国した弓裔に嫌われており、命を狙われたこともあったのだ。しかし、弓裔が民衆から嫌われ始めていた時に政変を起こし、高麗を建国したのである。朝鮮半島は後百済と高麗の2つの国が争いを続けていたが、935年に後百済の王だった甄萱が高麗に亡命し、新羅も高麗に降伏したため朝鮮半島が統一された。高麗は女性を優遇した社会で、女性が低い立場にありがちだった時代には珍しいことであった。また、貿易も栄え金や陶磁器を輸出して薬や香料などを輸入したりした。文化や思想なども発展し続けた高麗だったが、14世紀の紅巾の乱をきっかけに衰え始め、李成桂は1388年にクーデターを起こし、恭譲王を高麗の第34代国王に擁立した後、退かせ自らが国王となり474年続いた高麗に幕を引いたのである。
      
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